おじさんフェチがおじさん(不惑)を詳しく調査した【松永天馬氏インタビュー】

おじさんフェチがおじさん(不惑)を詳しく調査した【松永天馬氏インタビュー】

こんにちは、お久しぶりの変態です。

みなさん、去年の秋のあの大事件をご存知でしょうか。

おじさんマイスターこと私、変態文学大学生が!

アーバンギャルドの松永天馬さんのおじさん(=不惑)記念ソロアルバム「不惑惑惑」出演!!!

大事件にも程がありません?

アーバンギャルドの『魔法少女と呼ばないで』で挫折挫折の高校時代をなんとか生き延びた変態文学大学生。

時を経て、六歳年下の妹が『ワンピース心中』を口ずさんでいて、時代を超えて少女心理を鷲掴みする松永天馬氏の詩の魅力を再認識していた変態文学大学生。

そんなアーバンずぶずぶの変態文学大学生が松永さんのおじさん記念アルバムに出ていいわけ!?

しっかりとチャンスを利用させていただき、MV出演者による逆インタビュー、決行!

不惑(=おじさん)、大調査!

ということで、松永さんが日記や詩を書いたりして過ごしたという高田馬場のルノアールでお話を聞かせてもらいました。

●「おじさん」にして惑わず

そもそもこの「不惑」という言葉は、孔子が「四十にして惑わず」といったのがもととなり、四十歳を示すもの。

奇しくも変態が「おじさん」として認知すると公言している歳と一致します。(何様)

しかし、おじさんマイスターこと変態文学大学生は、リアルなおじさんを駆け巡る中で、40にして惑いまくりなおじさんしか見たことがありません

一体全体この現実はどうなっているのか、学校どころか、所さんも教えてくれないそこんところを突き詰めていきたいと思います・・・!

「惑うな」と松永さんを急かす「女」

●「おじさん」はシンデレラの夢を見る

松永さんが作詞・作曲をしているアーバンギャルドの楽曲といえば、少女心理を痛いほど言い当てた、理想と現実が入り混じる幻想世界・・・

それに対して、ソロの楽曲はかなり直接的な表現が多く、性的にも生々しい歌詞が多い気がしますが、どのように二つの世界を共存させていますか?

『不惑惑惑』も「ピンクにまみれてる生ゴミ」という部分のあたりなど、生々しい

元々、自分について語るのが不得意でした。アーバンギャルドのは、「少女」というものをあくまで「俯瞰」で見た、物語性のある小説のようなもの

活動も9年目に差し掛かったとき、その反動というか、等身大の男性性、現実の肉体を通したリアリティのある自分自身を描いてみたいと思ったんです。

当時35歳だったということもあり、世の中に、中年男性の心情を描くコンテンツがないということにも注意がいきました。

吉行さんは特殊かもしれませんが(笑)、世の中では「おじさん」に需要はない。

・・・(⌒-⌒; )(恋愛対象おじさん率9割超えリアルおじさんフェチ女)

撮影中、「もっとまとわりつく感じで!」と言われ、ええ・・・それはわたしがやるとセクハラなのでは・・・(^^;; と戸惑いながら松永さんにタッチする吉行

これまで消費されてこなかった「おじさん」というコンテンツを消費対象として捉えてみたかったんです

年を取れば取るほど、「おじさん」の肉体性は希薄になっていきます

女性に性的な眼差しを送ることには慣れているくせに、男性である自分が「見られている」という自覚はより少なくなっていくから

特に、女性よりも鏡を見ることも少ないわけですし。そんなわけで、「自分を見つめ直す」という意味もありました。

ソロMVで一緒に出てくる女の子にはどんな意味がありますか?

アーバンギャルドで描く女の子とは少し違って、もう少し血が通っていないというか・・・理解が及ばない存在、自分を翻弄する存在として登場させています。

松永氏とカラオケに行ってもドグラマグラ読んで知らんぷりの「女」。そりゃ理解不能ですわ。

翻弄・・・されたいのはなぜですか・・・?笑

性癖・・・と言ってしまえばそれまでなんですが・・・笑

多分「おじさん」にもシンデレラ願望っていうのはあって。自分を日常から連れ出してくれる王子様のような存在を求めているというか。

その人の思考に振り回されることによって、新しい自分を見つけることができる。

物理的にも「女」に振り回される松永さん

だから理解の及ばない存在に惹かれる。「おもしれー女」っていうのはそういうことかなと。

ああ・・・現代版ファムファタール的な・・・

リスナーさん曰く、それは言葉や音楽をビジュアライズ・象徴化したものではないかと。興味深い意見でした。

「地獄」へ松永さんを連れ出す「女」。

●「おじさん」は完成しない

とはいえ、あえて「不惑」というものをテーマにするのは思い切った発想だったのではないでしょうか。

人間は生きていく上で、小さな死を求めるものです。

僕の言い方で言うと、「句読点を打つ」というふうになるのですが、分水嶺というか、潮目が変わる瞬間を誰もが欲している。

死に急ぎゲームをする二人

でも、僕は独身で、子供もいない、いわゆる昇進や異動、転職などがある勤め人でもないので、そうすると、人生のページが切り替わる瞬間がないんです。

歌詞でも印象的に用いられている

そこで、作品という形で意識的に自分の記憶を記録することで、句読点を打つことができ、小さく死ねると思うんです。

こうやってアルバムを作ることで、40歳の自分の感情を銀盤の上に閉じ込めて置ける

遺品というか、生きた証というか。小さく死にながら生を引き伸ばす

子供を作るということについて、アーバンギャルな少女心理からすると、生殖や成熟を避けたいという気持ちが少なからずあると思いますが、そういう気持ちもありますか?

あくまで僕個人の考えですが、子供を持ってしまうと自分が「完成」してしまうのではないかという不安はあります

完成して、平和なところで満足してしまえば、創作意欲が湧かなくなるのではないかという不安です。

未完でありたいと思う。完成には向かって行きたいんですけどね。そのギリギリのパッションを保ちたい。

今回の作品も、地獄を目指すお話ですが、それも平和でない場所への憧れが関係しているのでしょうか

地図で示された「地獄」に向かう二人

そうですね・・・天国は、多分ですけど、退屈だと思うんです。

フランスのジャン・エシュノーズという作家の『ピアノソロ』という本がありますが、そこで描かれる死後の世界が興味深い。

パリの都会が地獄で、郊外の住宅地が天国なんです。

都会は喧騒、混沌で地獄かもしれないけれどやっぱり楽しい。安定しないものに憧れているのかもしれませんね。女性も・・・

「いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける」って有名な言葉もありますしね・・・

あ!その言葉!わたしもいつもそれを免罪符に悪行に勤しんでいます(笑)

不安定な女の子代表モチーフ。

●おじさんは「老い」てない

大学1年性の哲学の授業の小レポート、太宰治の『女生徒』に絡めてアーバンギャルドの『水玉病』について書いた変態は、「これって男の人が書いてるんだよね?」と教授に指摘されたことを忘れない。

そこで指摘されるまで、わたしは全く、松永さんが書いているなんて気づかなかったのだ。それほどまでに的確に言い当てられた思春期の女の心。ということで・・・

不惑のリアルを謳いながら、どのように10代の感受性を保っているのですか?

多分「老い」というのは、自分が築いた常識が崩れるのを怖いと思うことから始まると思うんです。

そうすると、新しいことを受け止めるキャパがなくなる。

すると、色々なことに興味を持つことが難しくなる。

そうして、人生がルーティン化して、生きていくことに飽きてしまう。

と、感受性なんてものは失われてしまう。

だから、常識崩壊の恐怖に立ち向かうために、自分自身に飽きないためには、少し勇気を持たないと

車のトランク開けたら血まみれの「女」。受け入れ難い状況。破壊される常識。

今の世の中は、少し勇気が軽視されているように思います。

逃げてもいいと思うし、休みたい人は休めばいいと思うけど、僕自身は、少しだけ勇気を持つことは重要なんじゃないかと思っています。

だから、避けてきたこと、怖かったこととして、47都道府県ツアーをしました。

金銭面、羞恥心、キャリアへの保身・・・そういう恐怖心に立ち向かう勇気を出しました。

僕は、僕自身に対してブラック企業なんです。そうすることによって非常にホワイトな未来が待っていると思うから。

自分の思想、考える矜持に対して、自分自身が奴隷なんです。

「僕は僕の僕(しもべ)!!!」

つまり、惑うおじさんはまだまだ老いてないということ。

敬意を払い、「オジ」に「サン」をつけろ!!

●惑うおじさんはエロティック

「小さな死」というとバタイユのオーガズムを思い出しますので、生々しい「性」の側面の他に、エロティックな側面についてもお聞きしていいですか?

それでいえば、うわついている状態、戸惑っている状態がある意味非常にエロティックだと思いますね。

惑う、二人。

エロティックなものって揺れている。

揺らいでいて、動きがあって、それに人間は惹かれると思います。

完成したもの、固定したものは、事後ですよ。

MVにおける事後的シーン

完璧なものよりも、崩れていたり、濡れていたり、歪んでいたり・・・肉体もそういうのに惹かれる。

惑惑している状態、つまり、まどっている状態に、人はエロティックなものを感じるのかもしれない。

惑惑

ただ、完成されているものの方が正しいかもしれない。でも、正しくないものに人間は惹かれ、正しくないものの方がエロティックなのかもしれないと思います。

なんということでしょう!ここにおいて、わたしが「おじさん」に惹かれる理由が明かされてしまったのです!

若者のようにあけすけに未完を肯定するほど未熟でもない。

しかし、孔子が掲げたような「不惑」の状態にもあたわない。

その間で揺れ動き、惑うおじさんは、まさに、エロティックの化身ではないでしょうか。

(ああ、、、世界がおじさんを消費しないのなら、この世のおじさんはみんなわたしが消費します・・・)

●終わりに

「こんなところでごめんね」って、思ってないですよね?笑

と聞いたら、めちゃくちゃ笑ってくれました。笑

会話の中でもパッと文学作品の引用が出てくるほど映像作品・文学作品への膨大な知識がありながら、冗談もしっかり受け入れてくれる松永さん。

サウイフモノニ ワタシハナリタイ・・・!!!

ぜひMV見てね!

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